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参 虹色の蝶が魅せた夢 + 10 +

last update Last Updated: 2025-05-08 20:11:47

 逆さ斎は土地そのものに仕える斎。神からの加護を受けずとも果敢に生きるが、地母信仰に基づいた独自の象徴を抱いている。

 それが、神皇帝の紋章にも使われている印璽に描かれる、月。

 逆井一族に認められた男児は月の影という称号のもと、神皇帝とともに神々の守護する国の補佐をするのだ。

 けれど未晩はその月の影になることの叶わなかった、逆井一族に認められなかったなりそこないだ。

 だから至高神が情けをかけて裏緋寒の番人に召したのかもしれない。

 そこまで考えて、彼は自分と同じ銀髪に緑の瞳を持つ逆さ斎でありながら、まったく別の、自分とは反対の位置にいる人間だということを改めて悟る。

 それは、彼とはけして相容れることないだろうという諦めにも似ている。

 里桜は未晩の言葉を撥ね退けるように鋭く言葉を発す。

「月の影のなりそこないの言葉など無用よ。闇鬼の呪力をつかって竜糸に悲劇を起こしてまで自分の望みを叶えようとは思っていないの」

「残念です。神に逆らう斎たる貴女が、代理の神という座に甘んじているなんて」

「何をっ……」

 悲しそうな未晩は里桜の腕を掴み、手の甲へ口づける。

「貴女が竜神の花嫁になれるよう、祝福してあげましょう」

 にこやかに微笑む未晩の翡翠色の瞳は、笑っていなかった。

「そんな外法で竜頭さまが惑わされるわけがない!」

 口づけられた手の甲を衣でごしごし拭いながら、里桜は抵抗する。それでも手の甲の周りはむず痒さがつづいている。目を凝らせば、蟻に似た羽虫が皮膚を喰らうように集い、里桜の手に印を刻みつけている。これは幻覚。呪詛なんかじゃない。自分と同じ術者なのだから、撥ね返せばいいだけのこと。

「――土地に仕えし逆さ斎が命ずる、我が身を襲いし悪しき幻よ、失せよ!」

 古語を使わない詠唱は逆さ斎特有のもの。土地神ではなく土地そのもののちからを分けてもらうことで術を発動させる逆さ斎は、地面の上にいる限りどこででもちからを具現することが可能になる。

 里桜は竜糸の代理神だが、それ以前に椎斎の、逆井を名
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    「颯月(そうげつ)」  代理神である里桜はふたつ名を呼ぶ権利も持っている。だから朱華のことをあえて朱華(あけはな)と呼び、竜糸の代理神として彼女と面会した。そして桜月夜のなかにも神々と対等の人間として認められたふたつ名を持つ人間がいる。桜月夜の守人と呼ばれる彼らもまた、ふたつ名を所持していた。「お呼びでしょうか?」 その桜月夜の一人、呟いただけで自分の傍に風のようにやってくる少年は、ふたつ名で縛った主のただならぬ状況に驚きを隠すことなく、その場に跪いた。「カシケキクの大神殿をあたってほしいの」 裏緋寒が神殿へ連れてこられたことでふだんは清冽な空気が漂う神殿内に緊張が走っている。瘴気に侵され闇鬼を顕現させた巫女のような例がふたたび出てこないとも限らない。そこで里桜は思い出す。自分の半神であるもうひとりの存在を。「きっと、大樹さまは至高神によって身動きをとることができないだけなのよ」 なんせ自分が逆さ斎、すなわち神皇帝が持つ『地』の加護に近い人間であるのと逆に、大樹は対をなす『天』の加護を持つカシケキクである。彼らが所属するカイムの中央に位置する大神殿だけが、至高神と直接的なやりとりを許されているのだ。「あぁ、どうしていままで気づかなかったのかしら! 大樹さまがいなくてもあなたがいるのなら『天』に接触できるじゃない」 至高神はとても厄介な神である。 かの国の神のなかで唯一の不老不死を謳う、美しき母なる天の神。気まぐれに異界に通じる穴をつくって人間と幽鬼を争わせたり、自分の息子である土地神たちに集落の統治を任せて人間の男とのあいだに子どもを作ったり、滅びを招いた娘を土地神の花嫁に据えようとしたりと枚挙に暇がない。 ……たぶん、あの天神は今回も眠りっぱなしの息子を起こすために人間たちを翻弄させ、どこかで高みの見物をしているはずだ。「里桜さま?」 「だって、大樹さまが消えて結界が薄れてからもうすぐ丸三日が経とうとするのに、瘴気の量は増えることも減ることもしていないわ。裏緋寒を連れてきたからかもし

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      * * *  雲桜が滅んだ日のことはよく覚えている。  十年前。里桜がまだ、九重と呼ばれていた頃のはなしだ。 早花月の下旬。その年は比較的暖かかったから、ふだんならまだ蕾の八重咲きの白い枝垂れ桜が盛りを過ぎ、すでに散りはじめていたのだ。そんな白い花びらが舞い散るなかで見た、幽鬼が襲ってくる前日の夕陽が、忌わしいほどに美しかったのだ。たぶん、それが予兆だったのだろう。雲桜が滅亡するという、予兆。 九重の父親は雲桜の集落にある神殿の大神官だった。常に清廉な空気と白い浄衣をまとい、土地神である花王の神、通称「花神さま」に仕えていた。九重もまた、自分が生まれたときに花神から『雲』の加護を与えられ、神官の娘として父親の手伝いをすることもあった。 花神さまには茜桜という名があったが、そのときの九重は彼と直に会話をすることはおろか、逢うことすら叶わなかったため、彼の名を知ることはなかった。彼の名を呼べたのは、『雲』の民のなかでも花神に愛された、限られた人間だけだったから。 その、限られた人間のなかに、父親だけでなく、九重よりふたつ年上の、朱華という名の少女がいた。  彼女の父親も九重と同じ、花神に仕える神官だった。そして、彼女の母親はカイムの姫巫女と呼ばれた天神の娘だった。朱華は、生まれたときから茜桜の名を識(し)っていたのだ。  九重が逆さ斎を頼って椎斎の地へ逃げ込み、名を里桜と改め、試練に打ち勝ち闇鬼を身体に封じ、土地神と対等の逆さ斎となったことで、彼女はようやく今は亡き故郷を守護していた土地神の真名を識ることができたというのに。 しかも朱華は九重よりも年配のくせに、自分が持つ『雲』のちからを制御できていなかった。  しょっちゅうちからを使いすぎて父親に叱られ座敷牢で罰を受けていたのを、九重は何度も見ている。無邪気で愛らしい、けれど後先何も考えていない愚かな娘だった。 きっと茜桜の結界に綻びを生じさせるほどの術を発動したときも、自分が罰せられてそれでおわりだと思ったのだろう。  けれどそうはいかなかった。  彼女のせいで雲桜は滅びの道を辿った。  神

  • 蛇と桜と朱華色の恋   参 虹色の蝶が魅せた夢 + 6 +

     土の上に押し倒され、朱華がちいさな悲鳴をあげる。さきほどの身体検査のつづきだとでも言いたそうに、夜澄の瞳が獰猛に煌く。黒から琥珀色に変化する双眸に射抜かれて、身動きがとれない朱華を嘲るように、夜澄は朱華の着衣を乱し、小ぶりな乳房を空気に晒す。「……あ」 「もう勃っているぞ……はやく竜神に愛されたくてたまらないとでもいいたそうな身体だな」 「そんな……っ!」 月明かりの下、夜澄に胸を露出させられた朱華は彼から逃げ出そうと身体をくねらせるが、留めていた帯がほどけ、肩から腰まで上半身を剝かれてしまう。仄かに白い肌は夜闇のなかでも発光しているかのように目立っていた。「きゃん」「抵抗するならこうだ。おとなしく感じろ」「あぁっ!」 腕を持ち上げられ、先ほどの勢いでほどけた帯で両手首を拘束された朱華は夜澄の前で胸の膨らみを強調され、甘い声をあげる。「縛られるのが気持ちいいか? いまにも達しそうな表情をしてる……」「ひぁ、そんなわけ」 夜澄の指先で左右の乳首を交互に弄られ、朱華が下肢をくねらせる。たとえいまが夜で暗いからとはいえ、神殿の外で行われる卑猥な状況は羞恥心を刺激する。胸元を愛撫され抵抗できなくなった朱華は頬を赤らめつつ、夜澄にされるがまま、身体を疼かせる。 やがて夜澄は手だけでなく己の顔を朱華の胸元へ持って来て口唇と舌での愛撫を開始した。れろれろと乳首を舌先で転がされ、今までに感じたことのない快楽を前に朱華は首を横に振る。「あぁ……それだめっ」 「さすがに胸からは蜜を出さないか……それにしても甘い香りだ。たまらない」 乳首を咥えたまま喋る夜澄に戸惑いながら、朱華は甘い声で啼く。未晩が施したおまじないよりも艶めいた彼の行為に、まだ触れられてもいない下肢が湿ってきていることに気づき、愕然とする。  秘処から分泌された桜蜜の甘い香りが漂ってきているのだろう、夜澄が満足そうに乳首を舐めしゃぶった後、下衣の間へ己の指を差込み、くいっ、と秘芽をつつきだす。どぷっ、と

  • 蛇と桜と朱華色の恋   参 虹色の蝶が魅せた夢 + 5 +

    「ねえ夜澄」 「なんだ?」 「くっつきすぎじゃない?」 星河が立ち去ったのを見送った夜澄は、朱華の首根っこを掴んでいた手を下ろし、自分の腕のなかへ彼女を招き入れた。真っ黒な外套を着た彼は猩々緋の刺繍が刻まれた月白の袿を着た朱華をすっぽりと覆い尽くすように、両腕で彼女を閉じ込めている。  まるでこの腕から逃がさないとでも言いたそうな、彼のかたくなな態度に、朱華は何も言えずにいる。「いやか?」 「……ううん。よく、師匠もそうやって、あたしを温めてくれたから」 「ふうん」 朱華の口から師匠、未晩のことがでてくると、夜澄は急に不機嫌な顔で突き放すように口を開く。「あの男のこと、何も知らなかったくせに」 「夜澄だって、知らないであたしのところに来たくせに」 両頬を膨らまして反論する朱華に、夜澄は勝ち誇ったように言い返す。「お前のことを俺が知っているぶんには、問題ないだろう?」 「あたし?」 「桜月夜の総代は天神が定めた裏緋寒を一目見ただけで判別する能力がある。それに」 意地悪そうな笑みを見せながら、夜澄は朱華の両頬に手をのばし、輪郭を確かめるようにゆっくりと指の腹を使って辿っていく。くすぐったいよと抵抗を見せる朱華を無視して、夜澄はつづける。「お前は姿を隠していた俺たちの気配にすぐ気づいた。ちからを半分以上封じられているにしては、優れた術者に育ったと思うぜ」 「……まるで昔のあたしを知っているみたいな言い方ね」 「それはどうかな」 朱華が挑発するように夜澄を見上げても、彼は素知らぬ顔で朱華の頬を撫でつづけている。「質問を変えるわ。あなたは、あたしがここにいる理由を知っている?」 「星河と同じ質問か。そりゃ、お前が天神に目をつけられた裏緋寒だから、だろ?」 「それはあたしでもわかることじゃない。そうじゃなくて、夜澄が知っていることを知りたいの」 「塗り替えられた記憶を取り戻したいのか」 そのひとことで、ぴん、と夜の空

  • 蛇と桜と朱華色の恋   参 虹色の蝶が魅せた夢 + 4 +

     ――いや、そんなことできるわけない。いくら、里桜さまがお望みになっているからといって……  葛藤を隠したまま、星河は足音を立てることなく朱華の隣から後ずさる。湖に視線を向けたままの朱華は星河が動いたことにも気づいていない。 自分の前で無防備に背中を見せる朱華を見て、震えが走る。  いまの竜糸は雪が降ってもおかしくない気温だが、湖のなかは地上よりも温かいのか、凍りついた気配はない。夜の帳が下りたいま、この少女を竜頭が眠る湖底へ突き落したら、どうなるだろう? 土地神は目覚めるのか……?「――莫迦なことはやめろ」 振り上げた腕を、思いっきり叩き落される。  星河はすぐそばまでやって来ていた同朋の姿に気づき、乾いた声でその名を呼ぶ。「夜澄」 ぼんやりと湖を見つめたままの朱華も、彼に気づいたのか顔をあげ、憤怒の表情に彩られた夜澄を見て、驚いている。「どうしたの?」 「……どうしたもこうしたも」 漆黒の髪と瞳を持つ、星河よりもはるか昔から竜神に仕えている桜月夜の総代。彼は星河の腕をきつく掴みながら、朱華に叫ぶ。「お前は緊張感がなさすぎる! 神殿内ではお前が裏緋寒であることを厭う人間もイヤってほどいるんだぞ! もうすこし自覚しろ!」 ぽかん、と口をあけている朱華を睨みつけながら、夜澄は星河にも吠える。「星河も星河だ! いくら里桜が彼女を非難したからっていきなり湖に突き落とそうとしただろ? あのときといまは違う! ……いま、そんなことをしても無駄だ」 夜澄が怒りをあらわにしている横で、星河は気まずそうに朱華の表情をうかがう。朱華は夜澄が言っていることの意味がわかっていないのか、いまも不思議そうに夜澄の表情を観察している。  夜澄は呆れたように朱華の背中へ手をまわすと、しっしと星河を追い払う仕草をする。「もういい。あとは俺が代わる。お前は戻れ」 「すまない」「謝るのは俺にじゃない。お前が先の裏緋寒と混同した彼女に謝れ」 「……そうだな」 星河は夜澄

  • 蛇と桜と朱華色の恋   参 虹色の蝶が魅せた夢 + 3 +

    「……カイムの地で加護があるのは五つの『雪』の集落と六つの『雨』。それ以外は『風』をひとつのぞいてすべて幽鬼によって滅ぼされてしまいました」 「そういえば、颯月は『風』なのよね」 自己紹介されたとき、彼はレラ・ノイミと言っていた。たしか、カイムの古語で風祭を意味していたはずだ。「ええ。瘴気を払うことのできる『風』は、古くから幽鬼たちに警戒されているんです。とはいえ、払うだけで幽鬼を葬り去ることができないため風祭をのぞいてすべて滅んでしまいましたが……」 「そういえば、土地神さまに後継がいないとその集落は滅ぶ、ってはなしもあったような……それも裏緋寒に繋がるの?」 「そのとおり。よくわかりましたね」 偉い偉いとあたまを撫でられ、朱華はなんだかくすぐったい気持ちになる。  星河は朱華を妹や娘のようにみているきらいがある。夜澄や颯月と違って、ひとり別の視点から裏緋寒の乙女である自分を見守っている、そんな感じ……  けれど朱華はそんな風にされることに慣れていない。父代わり、兄代わりだった未晩は、もっと朱華を自分の所有物のように扱っていたから。 星河はそこに立っているだけの柳の木のようだ。糸のように垂れ下がる葉をゆらゆら靡かせながら、焦点の定まらない朱華の心を見透かし、朱華の言おうとしていることを汲みとって、必要になったら支えてくれる。そんな、強い意志を隠した柳の木。  朱華は深呼吸をして、挑むように星河を見上げる。「星河。あたしがここにいる理由を、あなたは知っている?」 「すべては知りませんけれど、だいたいのことでしたら、さきほどの里桜さまとの会話で推測可能です」 「あたしは記憶がごちゃごちゃになっているみたい。師匠の甘い言葉だけを信じていればよかったのかな。そうすれば、九重が苦しむようなことは起こらなかったのに」  九重。 朱華は里桜のことを無意識のうちに呼んでいる。星河はあえて訂正を入れず、黙って彼女の言葉を待つ。「茜桜がね。あたしにちからを解放する、って夢に現れたの

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